ボロブドゥール寺院の本質へ迫る -空から宇宙の根本へ-

インドネシア

前回の記事ではシャイレーンドラ朝について調べた事をまとめました。

シャイレーンドラ朝は大乗仏教を信仰していたという事もあり、大乗仏教の歴史などを調べる事で更にボロブドゥール寺院の本質へと迫っていけると考えています。

更にシャイレーンドラ朝は密教を取り入れ、独自の大乗仏教が確立されていた可能性があるので密教についても触れていきます。

ここでは大乗仏教について中心に書き記していきたいと思いますが、私の学力は中卒程度ですので悪しからず。ご理解のほど、宜しくお願いします。

前回の続きでもある女尊ターラーに少し触れてから進めて参ります

それでは、亜細亜万歳


・女尊ターラー

観音菩薩が「自分がいくら修行しても、衆生は苦しみから逃れられない」(自分がいくら修行しても、一切の生きとし生けるものは苦しみから逃れられない)と悲しんで流した二粒の涙から生まれたターラーは「衆生の済度を助ける」(一才の生きとし生けるものを彼岸へ渡すことを助ける)と発願し、観音菩薩はターラーによって悲しみを克服したそうです。

寺院のレリーフとして女尊ターラーが祀られているが、決して大きなレリーフではありません。

女尊ターラーを祀るための建造とは思えないほどなので、やはり他に目的があったというふうにしか考えられません。

ですが、女尊ターラーと、ボブドゥール寺院全体の造りからして、中心的な思想である大乗仏教ならではの衆生救済的な印象を受けます。

今回の記事では大乗仏教を中心にまとめていきます。

大乗仏教とは

ブッダが創始した仏教は、ブッダの死後100年ほど経ってから様々な部派仏教に別れたとされています。

その中でも大乗仏教は、ユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきたとされおり、衆生救済を目的として、悟りを開いていないが、仏道に励む菩薩の立場を重視したとされています。

もう少し、わかりやすく砕いて言うと、一切の生きとし生きるもの全ての救済を目的とした宗派である大乗仏教は、アジア全域で信仰されてきた。と言うことになります。

生きとし生けるもの全ての苦を救うことを目指し、このような利他行を実践する人のことを大乗仏教では「菩薩」と言っているそうです。

・大乗仏教の成り立ち

大乗仏教は1世紀前後に起こり、1世紀末にもなると、ほぼ、その姿がハッキリとしていたことが通説となっています。

発祥の背景は様々な説があるそうですが、一部の仏教徒にたいしての批判から始まったとされている説を取り上げていきます。

『自分だけが悟れば良い』ということが目的になっている一部の仏教徒たちを見て、「利己的」と批判し、そうなると、少数しか救われない、という意味で小乗と、さげすみはじめました。

対して、自分たちは衆生(一切の生きとし生けるもの、存在)救済であり、大勢が救われるということ、それすなわち、大きな教え偉大な教えということで、大乗と名乗りはじめました。

乗り物とは仏教の教義体系を指しており、一部の仏教徒たちの利己的な目的、姿勢を見て小さな乗り物、少数しか救われない教えなので、小乗とさげすみ、自分たちの大乗とは、大勢が救われる教えなので、大きな乗り物という意味で、大乗仏教と名乗ったことがキッカケで大乗仏教が生まれました。

・大乗仏教の中心思想

大乗仏教の中心となる思想は「空」です。
150年〜250年頃に古代インドの哲学者である「龍樹(りゅうじゅ)」(ナーガルジュナとも呼ばれる)によって「空」の思想が理論化、体系化されました。

一才の事物、事象は言語概念を用いて把握する事の否定が「空」であり、真理はどのような言語概念によっても把握されないという意味を持ちます。

大乗仏教の歴史は大きく言うと、いかにして「空」を理解し、「空」を用いるか。つまり「空観」をいかに理解するかの歴史と言えます。

「空」と「空観」の2段階で分かれているところもボロブドゥール寺院と通ずるところがあり、ボロブドゥール寺院は、一度完成したものの上から更に増築されています。

どこからどこまでが一度目の完成でどこからどこまでが二度目の完成かがわからないですが、おそらくストゥーパ(仏塔という意味で釈迦の遺体・遺骨、もしくはその代替物が入っているとされている)がある階より下が一度目だと思います。

仏教の欲界、色界、無色界の三界でいうところの、欲界と色界を一度目に完成させ、二度目は無色界を完成させたのだと思います。

ボロブドゥール寺院の意味するもの

ボロブドゥール寺院には仏教の三界を表現しており、欲界は人間の住む世界で、色界は人間と神が共存する世界で、無色界は神の世界とされています。

欲界とは、淫欲と食欲の2つの欲望にとらわれている世界です。

色界とは、欲界の2つの欲望は超越したけど、物質的条件(仏教ではこれを色と言う)に支配されている世界です。

つまり生死などの因果関係からは自由になれていないと言うことです。

無色界とは、因果を超越した世界となります。

つまりは仏教の根本教義である、色即是空の世界です。

色界では空を表現し、無色界で空観を表現しているのではないでしょうか。

色界の物質的条件を超越しなければ無色界へと到達できません。

しかし、「空」を用いれば簡単です。

一才の事物、事象を言語概念を用いて把握する事の否定が「空」なので、生死、因果を把握することはできません。

つまり、因果は存在しません。宇宙も自分も存在しません。それが「空」です。

宇宙なんて人間の概念でしかありませんし、神が宇宙を創造したと言うのも人間の概念に過ぎませんから。

では空観はどうでしょう。

無色界である因果を超越した世界とは因果関係を理解した世界ではないでしょうか。

因果を超えているので因果の外側に居る状態。もちろん体が因果の外に出ることは不可能なので、ここでは心という言葉にしておきましょう。

因果の外側である心の世界に到達し、心の世界から見ることが「空観」であると言えるでしょう。

アインシュタインが娘に宛てた手紙には「宇宙の根源は愛である」と書いている。

科学的に言えば、宇宙の根本素材は愛であり、仏教的に言えば心ということになるのだろう。

・曼荼羅

そんな心から見る世界は曼荼羅のように見えるのだろうか。

ボロブドゥール寺院を回っていて上空から寺院を見たらどうなんだろう?と思いGoogleマップを開いたら鳥肌がたったことを覚えています。

まさに曼荼羅であり、絵ではなく、立体であることがわかります。

本来ならば、「空」を用いれば因果を把握することはできないはずなので絵にも立体的にもすることができないはずですが、「空」をあえて形として表現するとしたらこうなるのでしょう。

把握することができない、すなわち、脳で観測することは不可能ということになります。

脳で観測できない概念化できないことと言うとどういうことになるのでしょうか。

脳を使った時点で観測が始まりますので把握できてしまいます。

しかし、人間の構造上、左右、上下など正反を同時に見ることはできませんし、同時に概念化することはできません。

必ずどちらかが先に観測されてしまいます。

つまりは、後先ができてしまう原因である時間が邪魔をしてしまっています。

時間のない世界、愛の世界、心の世界、神の世界、宇宙の根本の世界から見た因果関係は曼荼羅のように見えるのかもしれません。

ボロブドゥール寺院の上空写真をみて、他に元素構造を思い出します

この絵は元素が動いているものを止めて観測した絵です。

つまり、曼荼羅も動いていることが前提で、非常に複雑な動きの構造をしていて脳では観測ができないのではないでしょうか。

曼荼羅については未だ知識吸収中ですが、ボロブドゥール寺院の記事自体は継続して更新していくことになるかと思います。

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